眼鏡の独り言

妄想や考える事が好きですが吐き出すところがないので喋らせてください。

【独り言】正義という危険思想。

僕は昔から集団行動が苦手だった。2人きりなら平気なくせに、グループの中に入ると途端に無口になり存在感を消していた。なので必然的に集団心理も気持ち悪かった。1人1人は個性があるはずなのに集合体になるとなぜか全員から個性が消えてるような感覚に襲われたものだ。よく見る現象はグループの1人がミスを犯してグループに損害が発生するような場面で起こる。ミスを犯した張本人は平謝りにも関わらず、全員で責め立てる。ターゲットは反撃が出来ないから遠慮なく全員が好きなだけ攻撃が出来る。だからここぞとばかりに責め立てるわけだ。その時の僕はというと、やはり後ろの方でドン引きしていた。攻撃の大義名分を得た事で嬉々として攻撃しているようにしか見えなかったのだ。複数人がいる事で罪悪感とかも薄れてるように見えた。

 

数の力というのは絶大で多数側が正しいとされるのだ。常識という概念が最も分かりやすい例だと思う。大部分の人間が正しいと思っている事が常識で少数派が非常識となる。間違っている事であってもそれが多数派であれば、それは常識となってしまう。人にとって常識は正しい事と認識されていると思う。多数派というのは正しいのだ。いじめだろうと犯罪だろうと多数派であればそれは常識となってしまう。

 

この考え方は善と悪の認識でも同じ事だと思える。特に国家間での争いは善悪で表現されがちである。何が正義で何が悪かの判断は一般人には出来ない。それは国家間での争いに関して善悪の決定は勝者が正義となる。敗者は言論が封殺され、勝者の言い分が正当化される。

 

つまり正義というのは勝者の理屈に過ぎないのである。正義の名の下であれば殺人だって正当化されるのだから恐ろしく思う。

 

これも多数派が少数派を封殺している構図と同じである。まさに弱肉強食で力の強い者が弱い者を虐げた上で自分を正当化する言葉が正義なのである。実際正しい行い?善の行動であればこの言葉がなくても理解は得られる。すなわち理解が得られないからこの言葉が必要になるのではないかと思う。

 

個人的には正義という言葉を持ち出す人間は危険思想の持ち主だと思っている。争いに正義も悪もない。あるのは利益の奪い合いだけである。大義名分で正義を名乗るだけでやってる事は大量虐殺なんてよくある話だ。

 

あまり無条件に世界の指導者を信用はしない方がいいと思う。彼らのバックには必ずスポンサーが付いていて、スポンサーの利益にならない事は行わない。スポンサーは利害が一致しているから支援しているのであって弱者救済の為に支援している訳では決してないと認識する必要がある。

 

結局のところ、正義は存在しないと思う。期待してはいけない。やるべき事は何が起きても対応出来るよう心構えをしておく事だ。